人は誰しも、気づかぬうちにレッテルを貼られながら生きています。
そして、時には自分で自分にレッテルを貼ってしまうことも。
たとえば、親に「あんたは不器用ね」「頑固ね」「お兄ちゃんより出来が悪い」と言われ続けた結果、「自分はそういう人間なのだ」と思い込んでしまう。そんな経験、ありませんか?
他にも、「男の子は活発であるべき」「女の子は素直で愛嬌がある方がいい」といった、いかにも“常識”っぽい言葉たち。私たちはこうしたステレオタイプにも知らず知らず影響を受け、そこに当てはまろうとしたり、逆に反発したりしながら、自分の輪郭を探っています。
レッテルの影響
あなたは、どんなレッテルを”自分”として受け入れていますか?
それはあなたにとって心地よいでしょうか。
それとも、あなたを縛るものでしょうか。
レッテルは、必ずしも誰かから与えられるだけではありません。
たとえば、「いつも大事なところで失敗する」とか、「本当に好きな人には振り向いてもらえない」とか。そんな経験から、自分で自分にレッテルを貼ってしまったこともあるのではないでしょうか。
一度貼ったレッテルは、いつのまにか馴染んでしまい、「自分とはそういう人間だ」と無意識に思い込んでしまいます。そしてそのレッテルをベースに物事を判断したり、人と関わったりするようになると、だんだんと「本当の自分」がわからなくなってしまう。
たとえば「女の子=素直で愛嬌があるべき」というレッテルを誰かに向けられたとします。それに素直に従うのも、強く反発するのも、それ自体は別にどちらでもいいのだと思います。
ここで重要なのは「そのレッテルを向けられた時、どれくらいの人がそれに影響されず、自分らしく振る舞えるか?」ということ。特に子どもの場合、親や教師、近しい友達など、影響力の強い存在から何かしらのレッテルを貼られた時、その子本来の個性は何の影響も受けずにいられるでしょうか。
社会に出てからも同じです。
たとえば、職場の上司に「君はコミュニケーション力に課題がある」と言われたとき、 ”上司の定義観点”におけるコミュニケーション力を伸ばそうとすることは、本当にその人の資質に合うものなのでしょうか。そして、本当にその人の在りたい姿とマッチするのでしょうか。
仮にこれらの答えがNoだったとしても、程度の差はあれ、その人の言動は上司からのレッテルの影響を受けずにいられないのではと思います。
呼び名に宿るエネルギー

レッテルとは少し違うようでいて、本質が同じだなと感じるのが「呼び名」です。
長年多くの人に使われてきた呼び名には、特定のエネルギーが宿ることがあります。
たとえば「ママ・お母さん」という呼び名には、「母=自分を後回しにして家族に尽くす人」というイメージが、多くの人の潜在意識に根づいているように思います。これは、過去の時代、多くの母親が実際にそう生きてきたことが、人類の集合意識として残っているからかもしれません。
近年は、女性の社会進出やジェンダー観の変化とともに、こうした集合意識も少しずつ変わりつつあります。それでも、いまだに多くの「ママ・お母さん」は、時間を気にせず仕事をすること、家事育児の免除や負担軽減、趣味の時間をたっぷり持つことなど、その家庭内で「パパ・お父さん」には許容されている自由が、自分にはないと感じている方も多いのではないでしょうか。
実際、私のまわりにも、そうした「母親像」に抵抗があって、結婚や出産に前向きになれない人たちがいます。かつては私自身もそうでした。
父は激務であまり家庭に関われず、母はフルタイムで働きながら、ほぼワンオペの家事育児。いつも疲れてイライラしていた母の姿に、「子育ては苦しいもの」という印象を持ってしまったのです。
その記憶から、私は自分が親になるとき、「昔ながらのお母さん像」と自分を切り離したいと強く思いました。(シータヒーリングをやっているとよく分かりますが、集合意識や遺伝の影響って、本当に強いですからね。)
なので、我が家では「ママ・パパ」といった呼び名を使わず、夫婦で名前(あだ名)で呼び合っています。息子にもその呼び方で話しかけているので、彼の中には「ママ」「パパ」という存在が登場しません。
こうすると、親子というより、ひとりの人間同士として共に生きている感覚になり、子育てへの過度な気負いも、子どもへの一方的な支配・コントロール欲もなく、息子の個性を尊重する姿勢が自然に育まれている気がします。
もちろん、呼び名に関係なく、親という側面も含めて、自分の人生を包括的に楽しんでいる方々もいます。
でもやっぱり、呼び名というレッテルのエネルギーが潜在意識に与える影響は、決して小さくありません。繰り返し呼ばれることで、「ママ・パパ」としての自己認識が深まり、潜在意識に眠る「母親は家族に尽くすべき」「父親は大黒柱として高い成果を上げるべき」などの古いプログラムを引っ張りだして、自分やパートナーに適用し始めるかもしれません。
もしあなたが、こうした古いプログラムに影響されているなぁと感じる場合、その影響を減らす方法のひとつは、我が家のように呼び名を工夫すること。(お子さんが既に大きい場合、難しいかもですが。)
より根本的には、たとえばシータヒーリングなら、「母親」「父親」についての定義観点を創造主の視点に置き換えたり、「子どもをもつと自由を失う」といった潜在的な思い込みをクリアリングしていくのがおすすめです。
呼び名・肩書き・誉め言葉……それ、本当に自分に合ってる?

ほかにも、「長男」「課長」「先生」といった肩書きも、レッテルの一種。
強いエネルギーが宿っているので、それが自分のエネルギーとネガティブな形で混ざってしまっていないか、点検してみてもいいかもしれません。
また、「あなたは優しいね」「しっかりしてるね」「優秀だね」といった、一見ポジティブな誉め言葉も、ときに自分を縛るレッテルになります。そのエネルギーが本当に自分にとって心地よいならそれを受け入れて自分の一部として認識すればいいし、違和感があったり苦しさがあるなら手放せばいいと思います。
誰かが求める優しさを提供する必要はないし、誰か基準での「しっかり者」や「優秀な人」である必要もありません。優しさも優秀さも、持ちたければ「自分にとって心地よい形」で持ち、表現すればいいと思います。
そうやって自分にとって不要なレッテルを剥がしていくと、自然にエネルギーが変わります。
そしてそのエネルギーの変化に伴って、現実を共に創る相手や環境も変わっていきます。”これまで”の優しさや優秀さを評価してくれた人々や環境とのご縁が自然と薄くなり、”今”の在り方を喜んで受け入れてくれる環境にシフトしていくでしょう。
それはつまり、あなたにレッテルを押しつけない、より自然体で生きられる環境なはず。
「誰か」になるより、「私」であること
私たちは、何者かになることを求められがちで、それに応えようとあがきがちです。
でも、過去に誰かの都合で貼られたレッテルは(たとえ自分で貼ったものだとしても)、今の自分にはもうそぐわないものも多いと思うのです。
何者になるかは自分で決められます。
何を好きで、何に感動し、何にやりがいを感じるか――そうやって自分の心・本質に目を向けていくことで、「どんな自分でありたいか」が見えてきます。
それは他者に対しても同じです。
「うちの子は〇〇」「あの上司は△△」などのレッテルを安易に貼ってしまうと、時に相手の可能性を狭めたり、お互いの関係を歪めたりしてしまうことも。
レッテルから完全に自由で居続けることは難しくとも、自分に対しても、他者に対しても、その本質にフォーカスする努力をしていけると素敵ですね。