皆さんは、病気になるきっかけについて、どんなイメージをお持ちでしょうか。
特に大病などは、それが身体的なものであれ、精神的なものであれ、運悪く偶然にかかるものと思っている方も多いかもしれません。
ですが、シータヒーリングでは、「全ての現実は自分が選んでつくっている」という前提で物事をとらえます。その観点から見た時、病気は本当に「運悪く」「偶然に」かかるものなのでしょうか?
それとも、私たちが「意図的に」選んでいるのでしょうか?
病気の裏にある「目的」
答えとしては、偶然も意図的も両方あります。
たまたま免疫が下がっていた時に風邪をもらったとか、産業汚染された土壌からの食べ物を長年知らず知らず口にしていたなどで、予期せず病を得てしまうことはあるでしょう。
ですが、私たちは無意識的にも遺伝的にも、病気になることで得られる「メリット」を知っています。はるか昔から、人間は自分の望みや目的を叶える手段として、「病気」を使ってきたからです。例えば、
・病気や障害があることで、戦時中の徴兵や農業社会における過酷な重労働を免除されたり
・持病や虚弱体質を理由に、望まない縁談を回避したり
・ある種の病気(「詩人の病」として多くの芸術家が憧れた結核等)が社会的ステータスや注目を得ることに繋がったり

先祖のこういった経験や社会の価値観を通じて、「病気は不都合の回避や、より望ましい現実入手のために有効である」というプログラムが、私たちの潜在意識にも遺伝子にも刻まれています。
そのため、誰に教わらなくても、子供の頃から望みを叶える手段として、たとえば学校や習い事を休みたい時、親の愛情や注目を引きたい時など、ごく当たり前にそのプログラムが発動して、病気(体調不良)をつくり出したりします。
そして、大人になっても「ハードワークが続いたので、インフルにかかり強制的に休息を確保する」とか、「自分がガンになって家族の絆を深める」などの現実を引き寄せてしまうことも。
更に、もう少し複雑な理由で病気が役に立つ場合もあります。たとえば、
・難病になったことで、誰も理解し得ない特別な存在になれる
・闘病を通して、自分の限界を突破し、強さを証明できる
・病気の自分の世話をさせることで、浮気したパートナーに復讐する
など。
これらはごく一例で、私たちは軽重様々な目的のために、病気を無意識のうちに手段として選んでしまうことがあります。そのぐらい、潜在意識や遺伝子に刻まれたプログラムのパワーは強力なのです。
でも、この方法は本当に自分を大切にしているといえるでしょうか。
病気を「手段」にすることの代償
病気になることで、私たちは一時的に「望み」を叶えることができるかもしれません。
ですが、多くの場合、潜在意識は「病気になった後」のことまでは、あまり考えていません。そのため、時に大きな代償を払うことになる場合も。
<病気になることの代償>
🔹 コントロールできない状況に陥る
軽い風邪で済むつもりが、思った以上に長引いたり、重篤な合併症を引き起こしたりすることもあります。がんのような大病は、発症した後では簡単に治療できないし、最悪命を落としてしまう可能性もあります。
🔹 本来得られたポジティブな可能性を失う
ちょっとした体調不良なら数日寝込むぐらいで済みますが、大病や慢性的な病気となると、人生そのものに影響が出ます。やってみたいチャレンジを年単位で我慢することになったり、就職・結婚・出産(子育て)などの大切なライフイベントを諦めざるを得ないこともあるかもしれません。
🔹 大切な人たちに負担をかける
自分が病気になることで、家族やパートナー、周りの人に看病や心配といった形で負担をかけます。長期になると、看病する側も心身ともに疲弊してしまい、最悪家族関係そのものが崩壊してしまうことも。
もし、本当に自分や自分の大切な人たちを大事にしたいなら、「病気を使わない方法」で望む現実を手に入れた方が良いとは思いませんか?
病気を手放す

病気に頼らずに、自分の望む現実を手に入れるためには、自分が「病気を使っていること」に自覚的になることが最初のスタートになります。
そして大切なのは、「病気を通じて得たかったものは何か?」を明確にすること。休息が必要だったのか、誰かの気遣いや愛情を求めていたのか、プレッシャーから逃れたかったのか。この時得ているメリットは、恐らくひとつではないでしょう。ある病気が、休息・愛情・逃避、その他様々な恩恵をもたらしてくれていることは非常に多いです。
これらのメリットを全て特定した上で、潜在意識の中にある「病気を使って○○を得る」という思考パターンをクリアリングしていきましょう。たとえば、
・「病気にならないと休めない」→「私は、どんな時も自分の心と体の声を尊重できる」
・「病気でいることで家族の絆を深めることができる」→「私は家族の愛を循環させる方法を知っている」
などに置き換えていきます。
更に、もう一歩踏み込んで、そもそもなぜ自分は病気という手段に頼ってしまうのかについて掘り下げることも大事だと思います。
休息や愛を得たい時、なぜわざわざ病気というハードな方法を選んでいるのでしょう?
ただ素直に休息や愛を求められないのはなぜですか?
そうすることが自分には許されていないと感じますか?あるいは、素直に求めたとしても、受け入れてもらえないと感じますか?
こうした感覚があるなら、その根底には「自己価値」についてのテーマが潜んでいるかもしれません。そこを解放しない限り、今ある病気が治ったとしても、再発したり、別の病気やハードな現実をつくり出してしまう可能性があります。
本当に自分を大切にするとは?
もし私たちが、自分を守ったり利するための手段として、無意識のうちに病気を選択していたとしたら、それは自分にとって立派な処世術のひとつです。
ですが、病気の代償は決して小さくないのです。
愛や休息、安心、安全——それらは本来、健康な状態であっても当然に受け取るべきもの。病気にならなくても、私たちはそれを得る価値があります。
本当に自分を愛し大切にするとは、 自分の望みに素直に手を伸ばし、当たり前にそれを手に入れる自由さを、自分にもたらしてあげることではないでしょうか。
そこに気づけたなら、その病気が担ってくれている役割を完了させ、感謝をもって解放していきましょう。
そして、自分の望みに素直に向き合い、シンプルに表現できる自分にシフトした上で、新たな現実を創造していきましょう。